
「禅 心の大そうじ / 枡野俊明」
「喫茶去(きっさこ)」
という話がある。
何を言っても、
「まあ、お茶でも」
という禅の坊さんの話だ。
「悟りを開くにはどうしたらいいのか?」
という質問にも、
「まあ、お茶でも」
「どうして『まあ、お茶でも』としか言わないのか?」
という問いにも、
「まあ、お茶でも」
禅の話には、トンチ的なものが多い。
「両手を合わせて叩くと音がする。では片手の音は?」
なんていう「隻手(せきしゅ)の声」という話もそうだ。
「禅の公案」とも言われるもので、
理性を越えた問いに答えを求めることによって、
自分の心の中の現実というものを再構成するメソッド、
とでも、言ったらいいだろうか。
そういう禅の言葉を現代の生活にいかそうというのが、これ、
「禅 心のそうじ」
著者の升野俊明(ますのしゅんみょう)さんは、
曹洞宗の住職で、庭園デザイナーでもあるのが面白い。
そのせいか、この本も、宗教的というより、
自己啓発的な色合いも感じる。
「ほどほどに生きる」
「他人と違うことを恐れない」
「正解がひとつとは限らない」
「運命にまかせきる」
いい言葉が並んでいる。
ふと開いたページを見るのもいい。
日々忘れがちなのが、心の「余裕」だ。
お金持ちになること、成功すること、
そういう欲も生きる上には大事なこと。
けれど、今、この瞬間をじっくり味わえないのはさみしい。
過去への執着や未来の不安などのために、
今、この瞬間を費やしていないだろうか?
「嫌なこともうれしいことも一度忘れる」
すべて、心の中から一度、捨ててみる。
とりあえず、立ち止まって、お茶を一杯飲んでみる。
もちろん、珈琲でも紅茶でもいい。
ただ、インスタントとかではなく、
自分が本当に「美味しい」と思うものを・・
何かのついでとかではなく、
ただ、その瞬間を感じる。
「まあ、お茶でも」
という言葉に、昔よりも、ずっと深い意味を感じる。
すべての問いに対する答えは、自分の心の中にある、
だから、「まあ、お茶でも」なのだ。
「そんなお茶なんてのんびり飲んでいる時間はない」
と、あなたが言うなら、こう返すだろう。
「まあ、お茶でも」
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